誰しもが昨年よりは良い年にと熱望している2005年が始まった。新年の諸行事が過ぎると、早く春になって欲しいと望む。まだ寒い中でもほんの少し暖かさを感じられる日がある。その時「梅(ムメ)一輪、一輪ほどの暖かさ(服部嵐雪)」を実感する。そしてしばらくすると予感どおり春がやってくる。
昨年小雨の中大阪城公園の梅林に撮影に行った。城の東に位置する梅林に、城郭から下って行くとまず香がだだよってきて、そして眼下に梅林が全面に見えてくる。ここは90種千本以上の梅があり、全国的にも有名。早咲き、遅咲きがあるため長い期間咲いているが、見頃は1月初旬~3月頃。
また近くであれば錦織公園に梅の里がある。正門から約10分くらい、ドレミの橋の方から歩いていくとまるで沈床庭園のよう。25種約500本の梅が広がっている。見頃は2月下旬から3月上旬頃。大阪みどりの100選にも選ばれている。
梅は中国原産と言われているが、日本の九州にも野生があり、日本オリジナルとの説もある。学名についているムメはシーボルトらが当時日本で呼ばれていた、ムメという発音をそのまま学名にしたもので、彼らは梅が日本固有種と信じていた。この呼び名も不思議で、平安時代ころにウメからムメに変わり、江戸時代には混乱し論争があり、「梅咲きぬ どれがウメじゃら ムメじゃら (蕪村)」があるほど。
梅は元々その実から薬用として輸入されたものらしい。実は未熟なものは青酸を含み有害である。そのためか昔から「梅は食うとも核食うな中に天神寝てござる」等の諺がある。また昔は殺菌効果を利用して、水の消毒にも利用されていた。
造園の方法で袖ケ香(そでがか)というのがあるが、手水鉢の上に梅の木の枝がかかるようにして、雨がつたわって、手水鉢の中に落ちるようにしたもの。金魚を石の手水鉢で飼育し、すぐに死なせてしまった経験があるから、かなり効果があったのだろう。
梅を描いた美術工芸といえば江戸時代の尾形光琳の「紅白梅図」であろう。国宝で、二曲一双の金地を背景に、紅梅と白梅の間を水がを蛇行し、白梅の大部分を画面外に隠し、紅梅は画面一杯に描いている大胆な構図とバランスは絶妙。昨年NHKスペシャルでこの「紅白梅図」の技法を詳細に放送していた。びっくりしたのは私だけではないだろう。金箔が使われていると思われていたが、実はだまし絵であったのだ。
金箔が重なる時に出来る箔足(はくあし)もあるので、長い間専門家を含め多くの人が騙されてきたことになる。梅の木の写実性は墨で描かれたのではなく、銅や緑青を用いた塗料を画面にたっぷり水を含ませ滴下する「垂らし込み」という技法を利用している。
中国料理は五味からなりたつといい、甘(あまい)、鹹(かん)(塩からい)、苦(にがい)、酸(すっぱい)、辛(からい)の5種がある。このなかで基本となるのは塩味と酸味で、微妙な加減で決まるといわれる。前者は海水から、後者は梅から得ていた。このことから料理の味加減をみることを「塩梅」(あんばい)という言葉で表現するようになった。谷崎潤一郎の細雪などにも「好い塩梅」という言葉が数回も使われている。
用材としては皮付きのまま磨いて、その樹皮の色つやの上品な風情を賞美し、床柱として珍重される。茶席では出隅柱をあかまつ皮付丸太、茶道口の方立を竹、給仕口の枠に梅を利用し、松竹梅の故事にあやかった例も見られる。材は緻密(ちみつ)で堅く、粘りが強く、櫛にはツゲ、イスに次ぐものとして利用された。その他将棋の駒、そろばん玉、箸、工具の柄、漆器木地、傘の柄、ステッキ 根付、印材などに用いられきた。
梅は桜とともに長い間文化的に最も大切にされてきた木だ。しかし時代とともにその内容は変わってきた。まず万葉集では119首もあり、樹木中で一番多く、桜の3倍近くある。それが平安以降は逆転する。また、万葉集には梅の「香」を読んだ歌は一首しかなく、 梅の花は「見て」楽しまれる事が多かった。しかし中国では「梅の香」が賛美されていて、その影響で懐風藻では梅の香を詠んだものが増え、古今集では梅の色も香も読み込まれるようになった。 当時の中国舶来文化から影響を受け、花といえば梅になり、梅の花から梅の香りに移り、そして日本の文化が定着し、国が安定すると桜に人気が移っていった。
桜の「華やか、賑わい、多人数で陽気に観賞、清く散る潔さ」に対し、梅は「落ち着き、孤独、耐えて生き延びる、木と香りをひとりでシリアスに観賞」など対照的である。共通項は花が楽しめ、木は有用材ということである。暗香(あんこう)浮動といえば梅とされるようにひそかに漂ってくる香は、桜では合わない。
長い冬を耐え、まだ寒さの中にあって花を咲かし落ち着いた香で凛としている姿は自分の生き方に合っていて好きだ。