先の全員例会で鹿児島を訪問し、昼食後皆で仙願園を散策していると、樹齢300年のヤクタネゴヨウ松があった。普通は屋久島と種子島にしか見られないもので、トクをした気分になった。そういえば一昨年の例会でも会場の華水亭のメインバーのカウンターからの松林がパノラマのように見え、景色を取り込んだ贅沢な旅館で印象深く記憶にある。この松は樹齢百年ぐらいだが、防風林として植えられ約50kmの海岸にわたっているという。
松は日本人に深くかかわってきた。正月は門松、庭には松があり、床間には地板として使われ、掛け軸には松が描かれている。能などの舞台背景には必ず描かれている。切手にも20種以上の主題に利用されていて、桜、梅の次に多い。ことわざも「雪中の松柏」など30近くもある。唱歌や流行歌にも多い。また、日本の文学では松はほとんどの作家で使っている。このようなことから「日本民族の木」と言っても過言はないだろう。
世界では約百種あり、日本では6種が自生するが、総称として松と呼んでいる。黒松は、海浜によく見られる。海岸の防風林として使われてきた。赤松は、海辺から山地にかけて多い。どちらも昔から植林もされ人工林としても、杉、桧、カラ松に次いで多い。NHKのプロジェクトXで放送された襟裳岬の緑化事業は黒松の植林であった。長寿と言われている松だが、実際は800年ぐらいが限界らしい、しかし世界最高齢の木は4700年の米国のブリスコンパインで松である。
万葉集に詠われている樹木の中では、松が77首もあり、一番多い。歌は松の長寿や緑が変わらないことを称え、永遠に「待つ」を松にかけている。また、松葉の形が末広がりなことから繁栄を願い、分岐する2つの葉は、人の股の形から「マタの木」と言われ、ここからマツに転化したという。さらに街・町(マチ)という言葉も生まれ。また、巷(ちまた)も同じ派生と言われている。
日本の城には必ずといっていいほど松が植えられている。松は樹脂が多く高い火力があるため、刀や農具などの鉄製品、あるいは焼物の燃料として使用されてきた。松根は、よく燃え、風や雨でも消えないため、昔から松明(たいまつ)として使われてきた。第二次大戦末期には、各地で飛行機の燃料用として松根油(しょうこんゆ)を集めるため、松根堀がされたという。年配の方では経験のある人も多い。暖炉に松笠を入れたことがあるが、ピンポン玉のセルロイドのように燃える。このように発火しやすい松を植えるのは城として危険すぎる。火矢でも射られたら、簡単に炎上するだろう。
ある著名人によると、城に松が多いのは、江戸時代になると戦のことよりも、教養人化した武士が、主人への忠誠の象徴として、せっせと城の周りに松を植えたからだという。 そんなものかと思っていたが、ある時に気が付いた事がある。松の甘皮は食べることができるのである。天保の飢饉では、農村部で松の甘皮などを食して飢えを凌いだ記録がある。城の松は明かりにもなり、用材にもなり、そして非常食にもなった。
また、松は土壌が荒地でも根づく先駆樹種で、岩などの上でも育つ。城などを人工的に作った土地では、十分な土は入れられない。他の樹木は根づきにくく、このような理由からも城では松が選ばれたのだろう。
私達の会社の創業時は松を扱った仕事であった。戦後の高度成長のおかげでビルの基礎、地下鉄工事などに松杭や松矢板が相当量使われた。杭はビルの基礎に利用されて、そのまま地中に残っているものも多い。時折ビル解体時に引き抜いた松杭を引き取る事がある。水をかけて洗ってやるとみずみずしい松丸太に戻り、再度商品に生まれ変わる。地中や水中では非常に耐久性がある木だ。エコロジーな産業資材と思うのだが、今はコンクリート杭にとって変わられた。
日本のアンデルセンといわれる浜田広介の童話の中に「砂山の松」というのがある。人間といすかの物語である。神は人間といすかを作り、「実の最後のひとつは残しておけ」と命じる。いすかの嘴は松笠の実を食べるのに好都合で、松林に住み着いた。人間は生活に困って、松を切ってゆくが、おろおろと飛び回るイスカを見て、一本の松だけは残す。いすかは最後の松の実を食べ残したまま死んでしまう。数十年の歳月が過ぎ、実は松、松林となり、また鳥たちがやってくるのである。広介は経済優先の価値観ではなく、古来からの習慣である、すべてを収穫するのではなく、ひとつは神のために残す知恵が無くなることを警鐘したかったのではないだろうか。
森林を切る場合でもいくつかの母樹を残すやり方がある。そこから新しい森が再生される。全部切り倒して、そこに苗木を植える方法もあるが、どちらがより自然かは明らかである。
あたらしき大地 「樹から木までの散歩道」掲載2008年10月
静岡県静岡市清水区 三保の松原 ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録